Prologue01
先日、Mebic扇町に新規事業のことで相談に行きました。
せっかく昔の資料を探してもらったのだが残念ながら収穫がなく
(皆様ありがとうございました)
逆にクリエイティブサロンで登壇してほしいと依頼をいただいた。
自分の話を聞きたい人なんているのかな〜と思いながらも、
割りときいてみたい人はいてるよ。とのことで、せっかくなので承諾した。
自分でも最近、思い返しをしていないので
サロンで話すことをまとめるついでに、ココに書いていこうと思う。
まずは、何だろ?生い立ち?まで行くと振り返りすぎる?
では、簡単に語っていこうと思う。
小さいころはホントに無気力だった。
やる切る気なんて全くなく、ぶらぶらしてたような気がする。
しかも小中学校なんかは夏休みの宿題とかは出したことがなかった。
そんなこんなでグレもせず、勉強もせず底辺の高校に入学し
特に目的もなく過ごしていたが、絵を書くことはすきだったので
とりあえずデザイン関係の学校に進学したいと思っていた。
しかし、母親に相談したのだが軽く反対にあい、
しかたなく理系の短大に進むことになった。
20数年前はデザイン・芸術関係の仕事は水物のイメージが強く、
就職なんかの偏見があり、体裁厳しい世の中だったと思う。
当時は父親を早くになくし母子家庭だったので、家は物凄く貧乏だと思っていた。
そのせいか、いろんなことを諦めていて、自分は早く働かないといけないと思い込んでいた。
が、しかし実は母の仕事柄、普通水準だったことは就職して初めてわかって愕然とした。。
短大なので無理なく進学し、なれない理系の勉強はもちろん捗らないまま、すぐ
バブルが弾け就職氷河期のなかだったが、
奇跡的にすんなりと電力関係に物を卸している会社に企業へ滑り込めた。
今思うと、よく入れてくれたなと我ながら思う;ホントに。迷惑ばかり掛けてたな。。
その会社では当時のwindows3.1やらwordの初期のもので
取説やマニュアルを作ることをやっていて、
ここでフツフツと高校の時の想いが蘇ってきた。
文章をレイアウトしたり、パソコン上で説明図を書いているが楽しくて
これを本業にできたら良いだろうな〜っと思うようになり
3年半ほど働いたのちに思い立って退職し、求人を片っ端から履歴書を送り
これも以外とすんなり、デザイン事務所に就職ができた。
しかし今でも忘れないんだけど、面接時に社長から
「この業界は辞めたほうが良いよ。キミ普通に頭回りそうだから他の業界に行ったほうがいいよ」
と言われたが、業界自体を知らない自分は、それを聞かず入社することになったのだが
その言葉の意味を理解するのには1ヶ月もかかることはなかった。
つづく。
(Mebic入居中の写真がぜんぜん無くてビックリした;これくらいしかなかった。。自転車だけど)
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